オヤケアカハチの乱

この話は史実に基づいたもので、一般的な昔ばなしとは異なりますので、お子様へは説明が必要かもしれません。

 宮古・八重山は1390年、中山に初めて朝貢関係をもつようになります。しかし、その関係はまだゆるやかなものでした。一方で、宮古・八重山の関係は仲宗根豊見親の力が西表島を中心に波照間島や石垣島の一部に強い影響力を及ぼしていました。ある年仲宗根豊見親が貢催促のために八重山に渡りました。ところがアカハチはそれを両3年間も拒否した上、宮古島を攻めようとする様子が見えました。アカハチの力が増すにつれて、八重山における支配力が侵された上に、その手が宮古島に及ぶことを恐れた仲宗根豊見親は中山王府へ訴えたのです。このとき仲宗根豊見親と親戚関係にある長田大主一族はアカハチに組しなかったために弟のナレトウ、ナレカサナリは殺され、長田大主は追われて西表島の古見に逃れました。ただ妹のクイツバはアカハチの妻になっていました。
 また、波照間島の明宇底獅子嘉殿はアカハチ支配下のタケチャ、コルセの説得に応じなかったために、無理やり船に乗せられた上、小浜島の沖で殺害されて海に投げ捨てられました。川平村の仲間満慶山はナカスメーでのアカハチとの会談の帰りに、名蔵湾のケーラ崎で討たれました。
 この事件を具体的に記した初めての王府編纂の歴史書『中山世譜』(蔡鐸本・1701年)には「琉球国が管理する島に、宮古と八重山とがある。毎年貢納していたが、この2、3年の間、八重山島は心変わりした上、反乱して攻撃しようとした。大宮古はこれを首里の国王に報告した」とあります。

戦況
 この報告を受けて、首里(中山)王府は直ちに八重山に出兵します。その様子を先の史料を中心にほかの史料の情報も交えながら見てみましょう(蔡鐸本『中山世譜』の部分については原田禹雄氏の現代訳を参考にします)。
 首里王府は1500年旧暦2月2日(太陽暦3月1日、以下かっこ内は太陽暦)、大里親雲上ら9名を大将に命じ、軍船大小46隻(100隻という史料もある)に3000人が分乗して那覇港を出港、宮古島の仲宗根豊見親、多良間島の土原オゾロらの軍船と合流、2月13日(3月12日)に八重山・石垣島に到着、長田大主も西表島古見から小舟で合流して案内します。2月19日(3月18日)に地形や八重山側の情勢を見るために小舟に乗って岸に上がりました。ところが敵陣の前方には大海が広がり、背後には険しい山がある上に、婦女子たちが各自草木の枝を手に、天に号し、地に叫び、呪文を唱えていました。しかも官軍が上陸しても恐れる気配がありません。八重山の首領・堀川原赤蜂も首を出して挑戦し、王府の兵も岸に近づいて双方とも罵りあいました。しかしその日は悪日ということで両軍とも戦いませんでした。首里王府軍は翌2月20日(3月19日)、46隻の軍船を2隊に分け、登野城と新河(川)の両方から攻めて戦った結果、ついに八重山側は敗走し、アカハチも底原山に逃げましたが追っ手に討たれて戦死、その妻クイツバも降参しなかったため、その一族郎党すべて打ち殺されました。

情報やいま2000年10月号より抜粋

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