星の砂の話

それは、まだ八重山の島々ができてまもない頃のお話。
天の星の女神さまが、星の子を身ごもりました。
星の子を産むにあたって、「どこか清らかな場所がないでしょうか」と天の神様に相談したところ、
「あの島の沖のサンゴと白砂の美しいところがよかろう」とちょうど現在の竹富島の沖のとても美しい場所を教えてもらいました。

星の女神はさっそくその海で星の赤ん坊を産みました。
ところが、それを知った海の神は「ワシにことわりもなく、こんな所に子供をたくさん産み落としたのは誰だ!せっかくのワシのお気に入りの海が台無しではないか」と怒り出してしまいました。
怒った海の神は、海蛇を呼び「よいか、ここに産み落とされているものを全部飲み込んでしまえ!一つも残すな」と命じました。
海蛇は海の神の命令通りに星の子ども達をすべて飲み込んでしまいました。

後には、白い星の子どもの小さな骨だけが、砂に混じって残されました。
それを知った天の神様は、その骨を拾って香炉に入れ、お正月の朝にお香を焚いて星の子ども達の魂を天に送るように人間たちに言いつけました。
そのおかげで、子ども達の魂は星となり、天の星の女神さまの星の周りで光り輝くようになったと言い伝えられています。

現在でも、竹富島では年に一度御嶽の祭りの時になると、必ず香炉の星砂を入れ替えているそうです。

からすとゆふぁーるー(アカショウビン)

みなさん 「アカショウビン」という鳥をご存知でしょうか?沖繩はもちろん石垣島でも、4~5月頃から夏の間よく見かける野鳥です。カワセミの仲間です。全身オレンジ系の赤できれいです。

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昔 カラスは、赤くてきれいな鳥でした。そして ゆふぁーるーは真っ黒で地味な色の鳥でした。夏のある日 ゆふぁーるーは、友達の すずめ たちとおしゃべりをしていました。「からすさんは、赤くてきれいな、着物を着ていていいよね。でも ゆふぁーるーさんも黒くてかっこいいよね。」 そう言われた ゆふぁーるーでしたが、一度でいいから からす の赤い着物を着てみたいなーと心の中でいつも思っていました。「今日は、暑いから みんなで、水浴びにいかないか?」とすずめさんにさそわれ一緒に 水浴びに行く事になりました。その途中で からすさんに、会いました。「からすさんも一緒に、水浴びに行きませんか?」みんなで水浴びに行くことになりました。水浴びのために 木のしたに脱いだ着物を置きました。ゆふぁーるーもからすの隣に着物を置きました。みんなで、水浴びをしていましたが、ゆふぁーるーはどうしても からすの赤い着物を着てみたくてしょうがありません。そこで ゆふぁーるーは、ちょっと用事を思い出したと先に帰ることにしました。他のみんなは、まだ暑いからとまだ水浴びをしていくことになりました。そして ゆふぁーるーは、からすの赤い着物をこっそり来て帰っていきました。しばらくしてみんなが、水浴びを終えて帰ろうとすると、からすの赤い着物はなくなっていて、黒い着物がおいてありました。「くそう、ゆふぁーるーめ 私の赤い着物を盗んでいったな。」・・・・・ それからというもの、からすは黒く アカショウビンは、赤い鳥になり、いつも からすが 着物を取り返しに来るかもしれないと 怯えて暮らしているんだってさ。

■沖縄人を演じた大スター・マーロン・ブランド

■マーロンブランド

■沖縄人を演じた大スター・マーロン・ブランド

マーロン・ブランドといえば、『ゴット・ファザー』で有名なハリウッドの大スターだが、昭和31年の映画『八月一五夜の茶屋』では、なんと沖縄人青年の役を演じている。『八月一五夜の茶屋』は、米軍に占領された直後の沖縄を舞台に、米軍と沖縄住民との珍妙な交流を描いた小説だ。これがブロードウェイの舞台にのせられ、大ヒットした。
このミュージカルが、MGMと大映との共同制作による映画化が決定すると、大の東洋びいきだったブランドは、
自らMGMの首脳部にかけあって、この映画に出演することを約束させた。
そこで、ブランドのもらった役というのが、この映画の狂言回しを演じる、沖縄人青年「サキ二」だったのである。
ところで、ブランドはこの映画に出演するため、のちに名作といわれた、いくつかの作品の主演依頼を断っている。
なかでも、マルク・アレグレ監督のフランス映画『チャタレイ夫人の恋人』のメラーズ役を断ったことは、ブランド自身、のちのちまで後悔しつずけたと言う。

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■日本で初めて全身麻酔手術をしたのは沖縄人?

■華岡青洲

■華岡青洲絵

1805年、和歌山の医師・華岡青洲が、チョウセンアサガオを主剤とした麻酔薬「通仙散」を発明し、
麻酔による乳ガン手術に成功した。これが、わが国における麻酔を使った最初の手術で有る、と言われている。
ところが、青洲の手術に先立つ事115年前、全身麻酔を用いて兎唇(みつくち)の手術をおこなった人が沖縄にいた、と言う記録が有る。
世界で最初に麻酔手術をした人は、今から凡そ千八百年前の中国の医師・華殷だと言われている。
17世紀の中国・福州に、その華殷の流れをくむ、黄会友という名医がいた。
黄は、麻酔手術によって兎唇を治すというので評判だった。
この噂を聞いて喜んだのは、ちょうどそのころ、福州に留中だった琉球の進責使一行で有る。
というのは、琉球国王の孫、尚益が兎唇であった為なんとかしてこれを治すことが国家的な関心事になっていたからだ。

■高嶺徳明

■高嶺徳明絵i

そこで、兎唇術を随員の一人に学ばせる事にし、白羽の矢がささったのが、高嶺徳明という36歳の那覇士族だった。高嶺は、別に医学の知識があったわけではなかったが、中国語に堪能で有る事を見込まれたので有る。
徳明は、さっそく黄会友にあって、その術を伝授してほしいと申し入れた。しかし黄は、先祖代々、一世一伝の秘伝だからと言って、その申し出を断った。しかし、徳明は諦めずに、これは国家の命運にかかわる重大事で有り、絶体に口外はしないと約束して、黄を説得した。黄は、とうとうその熱意に負けて、秘術を伝授し、秘伝書を与えた。徳明は、翌年5月に帰国すると、まず、男女二人の子供に手術をほどこし、好結果が得られると、尚益の手術を行い、見事に成功をおさめたのだった。ときに1689年11月20日の事だったと言う。
その後、徳明は、薩摩の琉球在奉行の命によって、奉行所つきの医師にこれを伝え、秘伝書も与えた。この秘伝書が、およそ1世紀をへて、華岡青洲のもとに伝わったのだと言われている。ところで、徳明は、他人に口外しないと言う黄との約束を破った為、自分の子孫が医者になる事を禁ずる。と言う過言を残して死んだと言う。

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龍とムカデとニワトリ

前回の昔話と内容はほぼ重複しています。

むかし1匹の龍が山の谷川の側で眠っていると、急に耳の中がチクチクと痛くなり それが、だんだんひどくなって、いても たってもいられなくなりました。
そこに一羽のニワトリが通りかかって「どうしたのか?」と たずねました。龍は耳の中が急 に痛くなったことを話しました。
ニワトリは「どれわたしが中を見てみよう」といって耳の中をのぞいてみると1匹の大きなムカデがいました。ニワトリはさっそくそのムカデをクチバシでつかまえるとペ口リと食べてしまいました。
こんなことがあって龍はムカデを怖がり、ムカデはニワトリを見ると怖がります。
琉球の 船には、舳先にニワトリの目を描き、ムカデ旗を立てて海の神(水の神)の龍があばれないための「オマジナイ」にするようになりました。
                                             月刊やいま より

大昔からエジプトやペルシャなどでも 穂先に目を書く習慣があった様です。目的地までちゃんとたどり着けるようにという事みたいです。西洋では、そのうち鳥の像やライオンなどの像が付けられ、女神像が残ったみたいですね。

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■沖縄で生まれ育った黒こうじ菌

□コウジカビ絵

東アジアや、東南アジアの国々では、酒造りに、カビの一種の、こうじ菌を利用しています。
日本の清酒は、黄こうじ菌、中国や、東南アジアでは、クモノスカビや、ケカビが、利用されています。

では、沖縄の泡盛は。?

黒こうじ菌。
これは名前のとおり、黒色の胞子をつけた、こうじ菌で、沖縄の酒屋が大切に育ててきた、沖縄だけの、こうじ菌。
黒こうじ菌は、香りがよく、デンプンを分解する力にも、すぐれている。

しかし、なんと言っても、黒こうじ菌の大きな特徴は雑菌を殺す力があるクエン酸(レモンのような酢っぱさの元になる。)を、たくさん造り出す事だ。

これが、高温多湿の為、モロミに雑菌が発生しやすい沖縄にとって、最速な菌と言われる理由。
因みに、九州の焼酎は、白こうじ菌を使うが、これも黒こうじ菌の変種で、明治の終わり頃、沖縄から、もたらされた物だそうだ。

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琉球の船がムカデ旗を掲げるわけ

昔話に龍がよく出てきます。あるとき一匹のムカデが住処を探して野山をさまよっていました。なか なか思ったような場所が見つかりせ ん。せっかくこの場所こそはと思った木の穴や家の床下などがあっても そこにはもう先に住みついているほかのムカデがいます。早く住処を見つけ ないと寒い日が来てしまいます。とう とう山深い池のほとりに来てしまいました。やっとそこに思ったような大きな穴 を見つけてそっと中をのぞいてみました。「あったかそうでなかなか良さそうだ」と思って中に入ってみました。「これはいい。まわりもやわらかくてあったかい」 さっそく穴の中の掃除を始めました。するとどうでしょう。地面がぐらぐらと揺れはじめました。「わーこりゃひどい大地震だ」。ムカデがほら穴だと思ったのは龍の耳の穴だったのです。龍はニワトリに助けられて耳の中のムカデを取ってもらいました。それから龍はムカデを見ると耳をふせておとなしくするようになりました。龍は「水の神」です。船乗りは海に出るとき「ムカデ旗」をかかげて海が荒れないようにしているのです。              月刊やいま より

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□ある海人(漁師)息子の日常

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前日に仕掛けた網を早朝に引き上げに行くんだけど、父親がビーチャー(酔っ払い)だったから、ほとんど毎日子どもだけで行っていたよ。朝三時~四時頃起こされるから眠かったけど、母親がアイスやみかん・黒糖とか、ごほうびをくれるから起きていたんだろうね。さすがに天気の悪い日は父親が行っていたけど、子どもだけで行っていたなんて信頼されていたんだね。

車を持っている家もほとんど無かったから、移動手段は馬車。魚を冷やす氷は毎日バスで街から運ばれてきていたね。
夏は布にかけておいて溶けないようにしていたさ。氷の入った木箱の中に捕った魚を入れて、町まで運んでいたね。

馬車の荷台も手作り、車やバイクの廃タイヤを使って車輪にしたり、木を組み合わせた車輪を鉄に巻いて使っていたよ。

自分はよく手伝いをしていたので町まで行くと、みんなに内緒で一人だけ今川焼きを買ってもらったのが嬉しかったさ。
昔はイカ・タコ・イラブチャー(ブダイ)なんかが良く売れていて、ミ―バイ(ハタ)やアバサー(ハリセンボン)は売れないから捨てていたんだよ。今じゃ、売れる魚は反対になってしまったね。

学校が終わって帰ってくると網に残っている魚を取りに行くんだけど、家からカブ(バイク)に乗って海まで行っていたんだよ。バイクを置いた場所から魚を上げた場所までは遠いから、浜に魚を置いてから歩いてバイクを取りに行っていたね。

そして、荷台に載せた木箱に魚を入れて家に持って帰っていたよ。あの頃は高価だったから自転車は無かったけど、小学校でバイクが乗れていたね。今じゃ考えられないね。

海の手伝いだけじゃつまらないから、時々、竹と拾った鉄でイーグン(モリ)を作って、タコとか取って遊んでいたよ。あれは面白かったさ。いらない魚は友達なんかにあげたりもしていたよ、友達は喜んで持って帰っていたね。夏は底地湾・冬は名蔵湾と海峡によって使いわけていたから、一年中手伝いをしていたね。冬でももちろん裸で泳いでいたよ。
濡れるのが嫌だったんだね。

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□カメガ—のおじぃ

□カメがーのおじい

白保のライフセーバー カメガーおじぃのお話です。

夏になるとみんな海に行って泳いでいたけど、遅い時間まで泳いでいたら叱られました。叱るのは、カメガ—のおじぃ。
不思議な人で、いっつも海にいましたね。怖かった~。カメガ—のおじぃを見つけると、「カメガ—のおじぃだ!逃げろ~」ってね。でも、このカメガ—のおじぃがいなかったら、白保ではもっと海難事故があったと思います。今でいう、ライフセーバーですね。

海で泳いでいたらすごく怒られました。海は怖いものだと教わっていたから。でも隠れてみんな泳いでいましたよ。でも、バレたらもう大変。だから、熱くなった防波堤でゴロゴロと転がったりして服を乾かしました。そう、泳ぐときは裸じゃなくて、服を着ていました。男の子は、バショウの木を切って、葉をむしって丸太みたいにして、浮き輪代わりにしました。またがったりしてね。

カメガ—のおじぃは今でいうホームレス。でも、沖縄本島の役人だったのか、その当時では珍しい、読み書きができる人。だから、集落の人にはとっても気に入られてましたよ。悪いことをしたら、叱ってくれるからね。子供たちの親からすれば「あの人はいい人よ~」ってね。子どもたちからすれば恐怖だけれどね(笑)

服装はHBジャケットっていう軍服みたいなのをいつも着ていました。ズボンはいつもヨレヨレ。靴は長靴の上のほうを切って短くしてたもの。夏も冬もおんなじでしたね。遠くからでもわかったね。

常にお酒のにおいもしていたね。あの頃は なんでかね~って思っていたけれど、今思うと、いろんなことができた人だから、各家にいっていろんなことを請け負っては、お酒をふるまわれていたり、食事をもらっていたのかな。

あの頃は海に行けば誰かがいて、遊んでいたけど、カメガ—のおじぃがいなかったら本当に大変だったと思います。白保の集落にとっては、本当に大切な人だったね。

おまけのお話です・カメガ—のおじぃは、昭和20年代後半から昭和30年代にかけて白保の御巖などに寝泊りして暮らしていたそうです。素性も本名もはっきりわかる人は、当時も今もいません。カメガ—は苗字のようですが、亀川さんだという人もいれば川上さんだという人もいます。字が達筆で頭もよく、役所への用事を頼むなどして、白保の多くの人が頼っていたそうです。

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□やぁーならいどぅ ふかならい

□家屋絵

表題「□やぁーならいどぅ ふかならい」についてお話しましょうね。

石垣島では昔から「やぁーならいどぅ ふかならい」と言う言葉が有ります。

意味は「やぁーならいどぅ=(お家で教わった事など)ふかならい=(そとでも出る)。」って言う事です。

いい言葉ですね。!

皆さんもつかってみてはいかがでしょうか?

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□アメリカ統治下で使われていたお金は?

□アメリカ統治下で使われていたお金写真

沖縄戦が終わり、沖縄はアメリカ軍の支配下におかれる。
住んでいた家は焼け、土地は軍用地として没収されるなか戦後がはじまる。
経済の混乱が続き、1946年のなかばまで通貨は使われず物々交換がおこなわれていた。
その後、本土からの引場者が円を持ち込み一方、アメリカ軍政府はB型軍票)という名の通貨を発行、1円が1B円と
みなされ、円とB円が同時に使われる時期が続いた。
1948年、米軍瀬府は沖縄から日本円を排除し、B円だけを法定通貨とした。
さらにドルと円の為替レートが本土では1ドル=360円、沖縄では1ドル=120B円とされた。
このような為替レートの設定は、アメリカ軍に依存する沖縄経済の構造をつくりだした。
冷戦体制のもとで、沖縄の米軍基地は次々と整備されていったが、基地建設に必要な資材は本土から優先的に輸入されたそのため、資材購入のためのアメリカのドル資金が大量に日本に流れこみ、日本の輸出産業を育てることになった。
沖縄では「円高」により輸入が増え、輸入に依存する経済構造が生まれ輸出に不利な為替レートのため、産業の中心で
ある製造業が十分育たず、多くの労働者や建設業者、サービス業者などは、基地に仕事を求め、基地に依存するようにもなった。またドルの流入はアメリカ経済とのむすびつきを強め、1958年にはB円は廃止され、ドルに統一されることになる。

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□第五話 昭和40年代(白保)

□第五話(白保)

第五話
三線の先生Yさん 織物の先生Mさん 思い出のお話です。
昭和40年代(白保)浜下りの風景

浜下りはとっても楽しみにしていた行事でしたよ。集落のみんなが浜辺に行って、ゴザを広げて楽しみました。お母さんは、前日からご馳走を作っていて、それを当日は浜辺に持って行って家族みんなで食べました。おいしかったね~。

子どもの仕事は、浜辺でサンゴの石ひろい。前日から子どもたちは、浜辺に行ってサンゴ石をがんばって探しました。あの頃は、浜辺に行ってもあんまりサンゴの石は落ちてなかったから、ちょっと大変。今はいっぱいあるけどね。

ひろってきたサンゴの石で、浜辺に自分の家の陣地を作って、門(入口)からトイレ、お父さん、お母さんの部屋まで。「お父さん、お母さんはこっちの部屋ね」って。広さは、4畳から6畳くらいだったかな。

かまども作りました。かまどで火を起こして、空になったサバ缶に海水を入れて塩を作ったり。子どもの頃だったから、とっても不思議でした。おもしろかったね~。

あと、ちっちゃい貝(チンボラ―)をゆでて食べました。あの頃は、子どもでも普通にマッチを持って火を起こしていましたよ。男の子は、ウニを探して食べていました。いろいろ楽しかったですよ。つくったさぁ~サンゴのおうち。

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□第四話 昭和30年代(川平)

□第四話(川平)

第四話
タコとり名人Oさん小学生時代の海遊びのお話です。
昭和30年代(川平)こっそり遊んだ海

親から「子どもだけで遊びに行くな」と言われていたけど、隠れて川平湾に遊びに行っていたね。漁師に見つかると、イーグン(もり)を投げられそうになって、慌てて逃げたさぁ~。

同級生と川平湾や底地湾で、腰まで浸かって釣りもしていたよ。山でとってきた竹に餌と重りのサンゴをくっつけてね。餌にツノメガニやガンガゼを使うとよく釣れて、今は高級魚のマクブー(シロクラベラ)もたくさん釣れていたさぁ~。

他人の家の手漕ぎの舟が浜に置いてあって、その舟を黙って使って釣りもしていたけど、主に見つかるとすごく怒られてさぁ~。そして、忘れた頃にまた使って怒られる、その繰り返しだったさぁ~。楽しいから怒られても止められなかったんだね。

黒真珠の養殖ロープの間がよく釣れていたさぁ~。釣った魚は持って帰ると親に怒られるから、人にあげていたさぁ~。
ウムズナー(イイダコ)取りもよく行っていたさぁ~。稲のワラにツノメガ二を半分に割ったのを包んで、巣穴に入れる。タコが触るとワラが揺れるから、ゆっくり引き出さないとタコが逃げてしまう。出てきた所をフォークで刺してつかまえる。この駆け引きがおもしろかったね。たくさん釣れたさぁ~川平湾。

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□第三話 昭和40年代(崎枝)

□第三話(崎枝)

第三話
現役海人Nさん小学生時代の漁と暮らしのお話です。
昭和40年代(崎枝)海人一家

親も海人(漁師)だったので、小さい頃からよく手伝いに行っていました。兄弟は男6人・女6人とたくさんいたけど、よく手伝いに行っていたのは三男の自分を中心に、四男、五男の三人でしたね。

昔はサンゴもたくさんあった。150cmくらいの枝サンゴが広がっていて、テーブルサンゴも大きいのがたくさんあったね。ピンク、黄色、青、緑など色とりどりで、きれいだったさ。

夜の海は船で沖まで出て、ライトとモリを持って魚を捕りに行っていたよ。お父さんはふんどし一枚、男兄弟たちは裸に水中メガネだけで泳いだよ。足ヒレも無かったね。服を着ていると泳ぎにくい、裸で泳ぐのは気持ち良かったさ。

新月の夜に漁に出ていたから、辺りは真っ暗。船にはカーバイトという灯りを乗せて漁をしていたよ。水を入れるとガスが出て、マッチで火を付けるんだけど、火をつけるのは子どもの役目。この頃にはマッチが使えていたね。

昔は物が無い時代だったから、漁で使う道具も手作りが多かったよ。漁に使う網は木綿でできていて、腐りにくくる為に染め粉で赤や青に染めていたね。

プラスチツクや鉛は貴重だったからね、網につける浮きは木を削って作ったり、重りはタカラガイを付けて使っていたんだよ。それに手伝いだけじゃつまらないから、竹に拾ってきた鉄を取り付けて自分でモリを作って、漁の合間にタコを捕ったりして遊んでいたんだよ。

父親は昔軍人で、色々な場所で生活をしていたから何でもよく知っていた。この頃の海人は普通はサバニで漁に行くけど、父親は使い勝手の良い「伝馬舟」をヤマト(内地)から仕入れてきて使っていたんだよ。この船は他では見たことなかったね。サンゴきれいだったさぁ~。

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□第二話 昭和40年代(登野城)

□第二話(登野城)

第二話
現役海人Sさん中学時代 海での遊びのお話です。
昭和40年代 登野城 手作りの舟(サバニ)

今もそうだけど、親には「海であそぶなよ!」ってよく言われたよ。でも、親に隠れて遊んでたね。
だから、海で遊んだあとは濡れちゃうから、濡れていると、すぐにばれちゃってから、怒られたよ。

裸で泳いだりはしなくて、Tシャツと短パンだったね。あの頃も、ハブクラゲがいっぱいいたから、やっぱり服を着てたね。でもよく刺されたよ。今みたいに、お酢なんて使わずに、そのままほっといた。

よく覚えてるのは、みんなで舟を作ったこと。一人乗りのとっても小さな舟。まわりからベニヤ板を集めてきて作ったよ。浸水防止に浜辺で拾ったコールタールを塗ったんだ。漕ぐときは、小さな板を手に持って漕いでいたよ。

目的地は、今の八重人工島の場所にあった防波堤。だいたい、舟10せきくらいで。大船団だね。たまにひっくり返っちゃうのもいたけど、中学生だったからみんな無事だったね(笑)。

防波堤まで何しに行ってたって?イカ釣りだよ。船に竿とリールとバケツをのせて。よく釣れたよ。家に持って帰ったけど、手製の舟で防波堤まで渡ってたなんて言ったら、怒られちゃうから、港で釣ったことにしてね(笑)。

防波堤の周りには、テトラポットみたいなものがあったから、よじ登って上にあがってた。もちろん、注意もされたよ。港にいるオヤジとか警察の人とかにね。

だから、港とかに海で遊ぶな、みたいな看板があるんだろうね。今とは遊びの度合いが違ったからね。とっても楽しかったさぁ~。

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□第一話 昭和50年代(野底)

□第一話(野底)

自然とのつながりが深かった ひと昔前の石垣島。どんな暮らしだったのか?あんなだったよ~
各(野底・登野城・崎枝・川平・白保)地域でお聞きしたお話を第一話から第五話にかけて御紹介させて下さいね。

第一話
昭和50年代(野底)石垣市在住 Mさんの野底地区でのお話です。
ある日の放課後
学校が終わると毎日、そとで遊んだね。
仲の良い友達と海で魚を釣ったり、近くの海で泳いだり。
自然の中での遊びを通して食べられるものも覚えた。
昔は遊びも無駄じゃなくて採った実をおやつにしたり、釣った魚は家族で食べたり。
遊びながら生活の知恵が、いっぱい身についたと思うよ。

今でも時々思い出すのは、小学校5・6年生のころ。
このころなぜか、食パンとマーガリンを持って、野底崎に登って、すっごく景色の良い山頂で食べるのがはやって
たんだ。なんでかねぇ。よくは覚えてないけど、このころにたまたま、給食とか家で、マーガリンを見かけるようになったのかな。ものすごくおいしかったよ。うまかったさぁ~

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□ナポレオンも琉球のことを知っていた!

□大琉球島探検航海記写真

19世紀のヨーロッパやアメリカの人々には、琉球は「理想郷」として、かなり知られていたらしい。
その情報の発信源となったのは、19世紀のはじめに出版されたバジル・ホールの『大琉球島探検航海記。』
1816年、英国海軍砲艦ライアラ号のバジル・ホールは、中国を訪れたあと、琉球まで足を伸ばし、
約一ヵ月半滞在。そこで彼が見たのは、友好的で戦争を知らない住民や、牧歌的で美しい島の風景。
二年後、彼はこの東洋の夢のような小島を紹介する航海記を書いた。
これが出版されると、たちまち評判を呼び、二年をまたずして、オランダ、ドイツ、イタリア、でも出版された。
こうして、彼の著書は、欧米の人々に「理想郷・琉球」のイメージを植えつけたのである。
ところで、この本のなかには、ナポレオンとホールが交わした有名な話が載っている。
バジル・ホールは、帰国の途中、セント・ヘレン島に寄港して、幽閉中のナポレオンと会見した。
そのとき、ナポレオンは、バジル・ホールから琉球には武器というものが一切ない、と聞かされると、
こぶしを撮りしめて、こう言ったという。
「武器がなければ、いったいどうして戦うのだ!」
戦いにあけくれた、いかにもナポレオンらしいエピソードですね。

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□日本で最初に空を飛んだ人は沖縄人?

□花火師安里jpg

「沖縄県沖縄市胡屋の安里家の四代前の祖先が、弾力を利用し、支柱に仕掛けられた弓矢に翼をつけ、これを足で上下に動かして飛行する装置を考案、沖縄県沖縄市泡瀬の海に面した断崖から飛行実験をし、成功した」
昭和8年7月31日付の「朝日新聞」に、こんな記事が掲載されたという。
安里家は「花火師安里」と呼ばれた安里周東で、今からおよそ二百年前の人といわれている。
彼が作った飛行機は、翼につながれた弦を足でこいで羽ばたかせるというもの、形は現在のハングライダーの
ようなもので、タコのように命綱がついていたという。伝説によると、最初の飛行実験は、沖縄県南風原町津崋山の
「メーヌモー(前の毛)」とよばれる高台で行われたらしい。
妻に命綱を持たせ、高台から飛び降りると、飛行体は調子よく舞い上がった、ところが、あまり高く上がり過ぎたため、妻があわてて命綱を引いたので、バランスを失い、自宅付近に墜落してしまった。
大正のころまで、安里家には、飛行体の図面や、実験に使った道具などが残されていたが、白アリの被害にあって
やむなく焼却されたという。
飛び安里の最初の飛行実験は、1768年から89年の間にかけて行われたと言われている。
日本最初の「鳥人」として知られる岡山の表具師・幸吉の「初飛行」が、1785年6月ごろといわれているから、
ひょっとすると、「飛び安里」は日本で最初に空を飛んだ人間かもしれないですね。

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知恵のある娘

むかし高い山奥の池に、1匹の大 蛇が住んでいました。この大蛇は大雨 を降らせ山すその村々に洪水を起こします。そして村人に言います。 「若い娘を一人差し出せ。そうすれば 洪水を出すのを止めてやろう」 村々ではくじ引きで娘を差し出す家 を決めました。その年は、一人娘の家 がくじを引いてしまいました。みんな はとてもかわいそうだと思いましたが、 くじを引いてしまったので、どうしようもありません。 でもこの一人娘はとても勇気と知恵 のある娘だったので、心を痛めている 両親に「私が山に入るときにマスに 一杯の針とお豆を持たせてください。 そうすればきっと私は帰って来れますから」と言って出かけて行きました。 娘は山を歩きながら豆を一粒ずつ地面 に落として行きました。帰り道の目印です。そして、大蛇の住む洞穴に着くとその穴に向かってマスに一杯の針 を投げ込みました。実はその洞穴は大蛇のロだったので、針を飲み込んだ大蛇は腹中を刺されて死んでしまいました。こうして娘は無事に家に、帰ること ができました。それから村々は洪水に 襲われることもなくなったということです。      月刊やいま より

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くしゃみの話

沖縄には、赤ちゃんが、「くしゃみ」をすると、「クスクエー(クスケー)」といって、魂(マブイ)を守るという風習があります。お話は諸説あるようです。そのうちの1つをご紹介します。

昔、長い間子供に恵まれなかった夫婦がいました。毎日のように神にお祈りして、1年後にやっと 赤ん坊に恵まれました。盛大な祝いを行おうとしている日、日が暮れかかった頃 沢山の友達が、子供の祝いの為に訪れて、お酒を飲んだり歌や踊りで祝っていたそうです。近所の友達が連れ添って、お祝いに、行こうとした道すがら、後ろからついてくる女がいたそうです。「あなたも良かったら一緒に行きましょう」とその女を誘い夫婦の家に行ったそうです。
着く頃には日も暮れて、家ではお客さんが沢山集まり三線が弾かれ賑わっていました。順ぐりに一人ずつ踊っているうちに、その女の番になりました。踊っているのを、裏座にいる妊婦が節穴から覗いて見たら、その女の胴から上は見えるが足がみえなかったそうです。驚いた妊婦は、これはマジムン(悪霊)にちがいないと近くにいる青年を呼び、藁を持って来させ左縄を七・五・三になわし(悪風返し)て妊婦のいる廊下に下げさせました。妻は気が気でなく夫を呼んでもらい節穴から覗かせると、妻の言うとおり下半身がなかったそうです。その女は、しばらくすると帰って行きました。妻は夫にあとを追うようにいい、あとをつけてみると、マジムンは墓の方に行ったそうです。
墓の側で様子を伺ってみると女が、「ここを開けてください」と言うと、墓の中から「だめだ。こんなに遅く帰ってくる者は入れない」と言われ、「それなら、どうしたら入れてくれるのですか」「今日お祝いした赤ん坊の魂を取ってきたら入れてやる」「それはどうして取るのですか」「子供の鼻をくすぐってクシャミをさせて取りなさい。」といわれたそうです。 墓でのやりとりを聞いていた男は大変驚いて急いで家に戻りどうしようかと考えていると 妻は、「おちついてください。クシャミをしたらクスケー、2回したらメークェーといいなさい」と教えたので、その通りにした。するとマジムンは子供の魂を取ることができなかったそうです。

元々は、仏教の言葉で「休息万命(くそくまんみょう)」長寿を意味する言葉だとか。それが、「くさめ」→「くしゃみ」となったとか、 糞くらえの意味だとか、いろいろあるようです。また、鎌倉時代の「徒然草」にも、遠く離れた子供がくしゃみしてないか心配のあまり「くさめ、くさめ」と言って歩く老女の話があるようです。
また スペイン語で「サルー」という言葉がありますが、乾杯の時にも言いますし、くしゃみをした人にも言います。健康や繁栄の意味があるそうです。英語圏でも 昔は、くしゃみをすると魂が抜けて悪魔が入り込むという言い伝えがありました。くしゃみの後には「Bless you」と声をかけてくれます。お大事にという感じですね。世界中に同じような習慣があるのは 面白いですね。

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猫の脈をみた男

ある時、琉球の王様が病気に なりました。王府は大急ぎで医者を探し琉球で1番の名医だと言われている医者をお城に呼 びました。そんな時ある役人が 言い出しました。「よし その医者がどの程のものかわしが、みてやろう」。その役人は一匹 の猫を連れてくると足に糸を 結びその糸の端を別の部屋に 待たせてある医者に渡しました。「おそれおおくも直に王様 のからだに手を触れることはで きない。この糸を通して王様の 脈を取れ」。医者は言われたと おりその糸の端を取ってしばらく脈を取りました。そして「はい、わかりました。これはとて も元気な猫の脈で、どこも悪い ところはありません」。役人は すっかり感心してしまいました。 「おそれいりました。あなたを試したことを許してください。」 と言って今度は王様のところに連れて行って王様の脈を取らせませした。 こうしてこの医者はお城に住み、ずっと王様の健康を見守ることになったそうです。その医者の弟子たちは村や街に住んで、みんな「名医」と言われるように なったそうです。                                       月刊やいま より 

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パパイヤになった母親

昔ある女性が、赤ん坊を生んで間もなく はやり病で亡くなってしまいました。それをとても哀れんだ神様は、その女性を、1本のパパイヤの木に生まれ変わらせてあげました。まだ緑のパパイヤの皮の表面を、傷つけると白い液が、じんわりと出てきます。それは、亡くなった女性のお乳の名残だということです。また、お乳の出の悪い女性が、パパイヤを食べると不思議と乳の出が良くなるといわれていて、今でも産後の、母親たちは、パパイヤの実を使った料理をよく食べるという事です。              月刊やいまより
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青パパイヤの表面を傷付けると、白い乳液状の液体がしみ出します。この液体の中に豊富に含まれているのがパパインです(タンパク質を分解する酵素)。パパイヤにはパパイン酵素だけでなく、カタラーゼ(さまざまな病気や老化を招く活性酸素を消去し、アルコールの分解を促す酵素)、アミラーゼ(でんぷんを分解する酵素)、リパーゼ(脂肪を分解する酵素)、プロテアーゼ(タンパク質を分解する酵素)、トレハラーゼ(体内のインターフェロンの働きを高め、免疫力を高める酵素)など、多くの有効な酵素が含まれているという研究結果もあります。  

他の植物の白い乳液状の液体には、有害なものもありますので安易に触ったり、口にしたりしないでくださいね。

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酔っぱらいの星

夏の南の空に「サソリ座」があります。サソリの胸のあたりに、ひときわ赤みを帯びた大きな星があります。アンタレスと呼ばれている星です。八重山ではこの星を「よっぱらいの星」と言います。酒好きのおじいさんが抱瓶(*ダチビン)をもって南の空で魚釣りをしているそうです。いつもお酒を飲んでいるので、いつまでも真っ赤な顔をしているのです。そこからサソリの尾にかけてたどっていくと、その先が釣り針のように、くるりと曲がっています。でも、まだ誰も酔っぱらいの星が魚を釣り上げたのを、見たことはないそうです。
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月刊やいま より

*ダチビン 抱瓶
携帯用の酒瓶。陶器でできていて、腰にフィットするように、三日月状になっています。スキットル。
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星や月の見え方は、人や文化によって様々です。このお話も、サソリに見えるこの星が、酔っぱらいのおじいさんの釣りをしている姿に、人間の想像力は面白いですね。

ちなみに、月は全世界共通で、同じ面しか見えません。日本では「ウサギの餅つき」ですが・・・・・。
ウサギの餅つきの由来

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運のいい塩売り

むかしむかし ある若い塩売りがおりました。その塩売りは、ある家を訪れた時、家にあった弓をみつけ何気なく手にとり間違って矢を放ってしまいました。矢はスーと飛んでゆきその先にあった倉の壁を、突き抜けて中に入ってしまいました。すると倉の中から大きな叫び声がしました。塩売りは「これはしまった」と思いましたが、なんと矢に打たれて倒れていたのは泥棒だったのです。それから塩売りは、みんなから 弓矢の名人と思われるようになり、村人たちに、近くの沼に住む 人食い大蛇を退治してくれるように頼まれてしまいました。ところが、これを面白くないと思ったものがいました。この村に住む*ユタです。ユタは、自分の祈りで退治できなかったこの大蛇を、退治してもらってはこまると思い、塩売りに持たせる弁当に、こっそりと毒を入れておきました。何も知らない塩売りは、弓矢と弁当をもって沼にむかい、大蛇が出てくるのを待ちました。でも怖くて仕方ありません。だって弓矢の名人でも何でもないんですから。そのとき沼の水がワーツとわれて大蛇が出てきました。その大きくて恐ろしいことと言ったらありません。塩売りは、弓矢も弁当も投げ捨てて逃げ出しました。大蛇は、塩売りが投げ捨てた弁当をペロリとたいらげました。ところがやがてひどく苦しみだし死んでしまいました。それを知った村人たちは「やっぱりあの塩売りは大変な強者だ」と言ってもてはやしたそうです。

月刊やいま より

*ユタとは、沖縄に古くから伝わる霊能者なのですが、一言で霊能者とは言えない存在です。 ユタは民間の巫女ともいわれ、女性が多いのですが、男性のユタも存在します。

病魔除けのサン

昔、登野城の浜の近くのある岩に、小さな舟が乗り上げて困っていました。たまたま通りかかった漁師が、その舟と人を助けてやりました。その小さな舟に乗っていたのは小さな男。しかも目玉が一つしかありません。
その小さな男は言いました。「助けてくれてありがとう。それにしても、あんたもこれはおかしいなと思っているだろうが、私はただの小人じゃないんだよ。私はこの島に病気を持ってきたものなんだ。波に押されて、大岩にぶつかって困っていたところを、お前さんに助けてもらった。何にもお礼はできないが、病気から逃れる方法を教えることにする。それはススキの葉を結んでサンというものを作って家の軒下にぶら下げておくことだ。そうすればどんな病もお前の家には入り込むことが出来なくなる。」
その後漁師がその通りにすると本当に病気になることが無くなりました。それから近くの人たちも軒下にサンを飾るようになったという事です。

月刊やいま より

サン
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本土では端午の節句に軒に菖蒲の葉を飾る風習がありますが、似ていますね。
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大魚をさらった大津波

これは波照間島い伝わるお話です。

むかし 漁師が、海で網を打っていて、とてつもなく大きなさかなを、網にかけました。漁師は、近くにいた仲間に手伝ってもらい、やっとの思いでその大魚を浜にあげ、村の人たちみんなで食べようと相談していました。そのとき、その大魚が沖に向かって叫びました。
「おーい 助けてくれ。今夜、私は切りきざまれて食べられてしまうのだー!!」
すると今まで静かだった海が、不気味な音を立て、沖の方に黒い波が立ち上がりました。それがどんどん島に向かって迫ってきます。漁師や村人たちは、あわてて、島の高いところに、逃げました。ドドドドド・・・大きな波が島にぶつかり、浜に近い家々をすっかりおおいつくし、やがて沖の方に引いていきました。波の消えた浜には、そこに建っていた家々も、せっかく苦労してとった大魚も、みんな無くなっていました。

この話は 石垣島に伝わっている「人魚と大津波」の波照間島版だと言われています。

                                         月刊やいま より

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天から落ちた雷の娘

昔、平久保の上の雲の中で、遊んでいた雷の娘が、あやまって足を踏み外して外界に落ちてしまい、大きな岩の中に閉じ込められてしまいました。たまたまそこを、通りかかった若い百姓が、岩の中から呼ぶ声に気が付きました。
「そこの人。あんたが持っているクワで、この岩を力いっぱい叩いてください。そうすれば私は、ここから出て天に帰れます。お願いです私の言うとうりにしてください。」
周りに人の姿はありませんが、声ばかりが聞こえます。百姓は不思議に思いましたが、声の言うように、試しに力いっぱい持っていたクワで岩をたたいてみました。するとその岩から火花が飛び、同時に若い娘がが飛び出てきました。
その娘は百姓にお礼を言うと「もし、火がほしい時には、持っている鉄器で石を強く打ちなさい。きっと火花が出るでしょう。それを枯草にうつせば火が付きます。」と、教えました。
これが火打ち石の始まりというおはなし。

月刊やいまより

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大浦山の鬼岩

昔々、伊原間のあたりではひどい災難が続いて、日照りで作物がみんな枯れたり、悪い病気が流行ったりしたそうです。みんなが困っているときに一人の占い師がやって来て、その話を聞き、さっそく占ってみることにしました。占いが終わり占い師が「あの大浦山の中腹の、おそろしい鬼の顔のような岩にたたられている」と言うのです。村人たちはみんなで、どうしたら良いのかと話し合いましたが、なかなかいい知恵が出てきません。そのときひょっこりと現れた子供が言いました。「みんな大事なことを忘れてるよ。昔からシーサーは村のあちこちで魔除けをしているよ。だから大きなシーサーを作って、あの岩をにらませたらいいさー。」それだ!!と村人みんなで、大浦山の大岩に向かって大きなシーサーを作りました。すると、ぴたりと災難も収まり、この村はそれからみんな幸せに暮らせるようになりました。今でも大きなシーサーが伊原間から鬼岩をにらんでいますよ。

(月刊やいま より)

オヤケアカハチの乱

この話は史実に基づいたもので、一般的な昔ばなしとは異なりますので、お子様へは説明が必要かもしれません。

 宮古・八重山は1390年、中山に初めて朝貢関係をもつようになります。しかし、その関係はまだゆるやかなものでした。一方で、宮古・八重山の関係は仲宗根豊見親の力が西表島を中心に波照間島や石垣島の一部に強い影響力を及ぼしていました。ある年仲宗根豊見親が貢催促のために八重山に渡りました。ところがアカハチはそれを両3年間も拒否した上、宮古島を攻めようとする様子が見えました。アカハチの力が増すにつれて、八重山における支配力が侵された上に、その手が宮古島に及ぶことを恐れた仲宗根豊見親は中山王府へ訴えたのです。このとき仲宗根豊見親と親戚関係にある長田大主一族はアカハチに組しなかったために弟のナレトウ、ナレカサナリは殺され、長田大主は追われて西表島の古見に逃れました。ただ妹のクイツバはアカハチの妻になっていました。
 また、波照間島の明宇底獅子嘉殿はアカハチ支配下のタケチャ、コルセの説得に応じなかったために、無理やり船に乗せられた上、小浜島の沖で殺害されて海に投げ捨てられました。川平村の仲間満慶山はナカスメーでのアカハチとの会談の帰りに、名蔵湾のケーラ崎で討たれました。
 この事件を具体的に記した初めての王府編纂の歴史書『中山世譜』(蔡鐸本・1701年)には「琉球国が管理する島に、宮古と八重山とがある。毎年貢納していたが、この2、3年の間、八重山島は心変わりした上、反乱して攻撃しようとした。大宮古はこれを首里の国王に報告した」とあります。

戦況
 この報告を受けて、首里(中山)王府は直ちに八重山に出兵します。その様子を先の史料を中心にほかの史料の情報も交えながら見てみましょう(蔡鐸本『中山世譜』の部分については原田禹雄氏の現代訳を参考にします)。
 首里王府は1500年旧暦2月2日(太陽暦3月1日、以下かっこ内は太陽暦)、大里親雲上ら9名を大将に命じ、軍船大小46隻(100隻という史料もある)に3000人が分乗して那覇港を出港、宮古島の仲宗根豊見親、多良間島の土原オゾロらの軍船と合流、2月13日(3月12日)に八重山・石垣島に到着、長田大主も西表島古見から小舟で合流して案内します。2月19日(3月18日)に地形や八重山側の情勢を見るために小舟に乗って岸に上がりました。ところが敵陣の前方には大海が広がり、背後には険しい山がある上に、婦女子たちが各自草木の枝を手に、天に号し、地に叫び、呪文を唱えていました。しかも官軍が上陸しても恐れる気配がありません。八重山の首領・堀川原赤蜂も首を出して挑戦し、王府の兵も岸に近づいて双方とも罵りあいました。しかしその日は悪日ということで両軍とも戦いませんでした。首里王府軍は翌2月20日(3月19日)、46隻の軍船を2隊に分け、登野城と新河(川)の両方から攻めて戦った結果、ついに八重山側は敗走し、アカハチも底原山に逃げましたが追っ手に討たれて戦死、その妻クイツバも降参しなかったため、その一族郎党すべて打ち殺されました。

情報やいま2000年10月号より抜粋

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アイナマ石

昔、川平村から平久保村へ嫁入りをする娘がいました。

その嫁入りの話は、親同士で決めたものでしたので、娘は相手の顔も知らず、しかも、島の果てで川平村からは2日もかかる遠くて厳しい生活がまっている平久保村への嫁入りに大きな不安をいだいていました。

そこで、娘は、赤石を過ぎ、クーラダー(小浦田)を過ぎて、いよいよ平久保村へと近づいている山道を歩いていると、急に「小便がしたい」と言って林の中に入っていきました。しかし、いつまでたっても戻ってきませんでした。心配した供の者が林の中に探しにいくと、そこに娘の姿はありませんでした。辺りを見渡すと、そこに石があるだけでした。

娘を探しに行った供の者たちの間では、意に添わない結婚を苦に娘は石になってしまったのだとの話になり、その話が広まって、人びとは、その石を「アイナマ石」と呼ぶようになったそうです。

娘が悲観のあまり石化した伝説はほかにもあり 石になった花嫁という「アイナマ石」の伝説も人頭税制度下で苦しんだ

農民や女性たちのやり場のない悲しみと怒りが 石を通して伝わてきます。

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赤馬

昔々

八重山の宮良村に大城師番(おおしろしばん)という乗馬の名人がいました。

ある朝・・・名蔵湾を歩いていると海から馬が上がってきました。

馬じゃないか!待てよ!
神の馬は海からやってくると言い伝えがある。ということは、あれは神の馬!

馬に近寄ると馬は、師番をのせて、走りだしました。

俺を乗せてくれるのか?す、すばらしい馬だ。
おい、馬、お前は今日から赤馬という名前だぞ!

赤馬!いらさにしゃー(うれしいぞ!)

それからというもの、師番と赤馬はとても幸せでした。

赤馬の評判は、首里城の王様の耳にも入りました。八重山にすばらしい馬がいるという。その馬を城に連れて参れ!

すぐに役人がやってきました。

赤馬を王の馬にする 王様に背くと、師番、お前だけではなく、馬も死罪だぞ!

かわいそうに、無理矢理に引き裂かれた師番と赤馬。

さようならー赤馬、しあわせになるんだぞー

首里に着いた赤馬は、暴れて手がおえません。名馬というのは嘘であろう。
全く言う事を聞かぬではないか!師番め、偽物を使わしおったな!

言う事を聞かない赤馬に、とうとう王様は怒ってしまいました。

そのころ師番はなにか、胸騒ぎがして赤馬に会いに行くことにしました。

師番は、一晩中船を走らせ、首里城へ向かいました。

お城の門をたたいて、「赤馬に会いにきました。開けて下さい。」

ようやく赤馬に会えました。

会いたかったぞ!赤馬!私が悪かった。すまない!

そして 王の前で素晴らしい走りを見せました。

驚いた!赤馬は本物の神の馬だ。そして、師番、おまえの馬だ。
私が悪い事をした。と師番を許しました。

こうして、八重山に帰る事は許されましたが、赤馬の評判は既に、
薩摩の殿様にも伝わっていました。

赤馬を薩摩の馬にしようと薩摩の役人は、無理矢理赤馬を船に乗せました。

はなせっ!赤馬!赤馬ぁあああああ!
赤馬ー!赤馬よー!

師番は来る日も来る日も赤馬のことを思っていました。

すると 外で物音がしました。

あ、赤馬!?帰ってきたのか!赤馬!

赤馬は、大好きな師番に会うために、荒れた海を泳ぎきり帰ってきました。

しかし、疲れきってしまった赤馬は、師番の腕のなかで息を引き取りました。

その後、師番は、赤馬のすばらしさを伝えるために歌を作りました。

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赤馬ゆかりの地

 

野底マーペーの話

むかし、八重山(やえやま)の石垣島(いしがきじま)と西表島(いりおもてじま)の間にある黒島という小さな島に、マーペーという美しいむすめと、カニムイというたくましい若者がいたって。

マーペーとカニムイは小さいころからの仲良し。
家も、中道と呼ばれる道をはさんだ向かいにあるものだから、ずっと、それこそ朝から晩までいっしょになって遊んだりケンカしたりして過ごしていたって。

村の人も、マーペーとカニムイの仲の良さを知っていて、あまりに似合いの二人だから、
「いつになったらけっこんするのかなぁ」
と言っていたんだって。
そんなある日。

島に大勢の役人がやって来て、村中の人みんなに集まるよう命令して、こう言った。
「王様の命令として、これまでおさめていた米やさとうをもっと多く納めるように。 それには今の土地では足りないので、新しく米やキビを作ることのできる土地を開くことになった。
ついては、この島から石垣島へ人を移すことになった。 村の中道からこちらへ住んでいる者は、全員明日の朝、石垣島へ行くことを申しつける」

いっしゅんシーンとなった村人だけど、そのうちに、
「大変なことだ。ぜったいに行かんぞ」
と、さけぶ声が多くなった。

「えーい、だまれ、だまらんか。もんくをいうやつは、ここで今すぐ切ってやるぞ」
刀を持ってみんなの前に立ちはだかる役人に、だれも声を出す者はいない。

そこへ出てきたのがカニムイ。

「お願いです。こちらには、私とけっこんすると約束したマーペーがいます。そのむすめだけは連れて行かないで下さい。お願いです」

でも、役人は刀を持ったまま言うことを聞いてはくれない。

しかたなくあきらめマーペーとカニムイは、たがいに見つめあったまま、だまって別れるしかなかったって。

中道をへだてていただけで、はなればなれになったマーペーとカニムイだったわけ。

石垣島へ連れて行かれたマーペーたちは、野底(のそこ)という村で、うっそうと木がしげる森をそれこそ朝から晩まで働いた。

こうして、広い海とけわしい野底岳(のそこだけ)にはさまれた村にも、少しずつ作物が実るようになった。

だけど、ある夏のこと。
村をマラリアというおそろしい病気がおそってきた。

苦しむみんなのために、村では、お祭りをして、おそろしいマラリアをふりはらい、村を明るくしようとしたわけ。

マーペーもマラリアにかかってしまって、ねこんでしまった。
マラリアで苦しみながら、マーペーが思うのはカニムイのことばかり。
祭りの日、一人家を出たマーペーは、どうしてもカニムイの住む黒島が見たくて、苦しみながらも野底岳に登っていった。

だけど、やっとのおもいで、ちょう上にたどりついたマーペーが見たものは、石垣島で一番高いおもと岳だった。

どんなに目をこらしてみても、カニムイの住む黒島は見えない。

とうとうせいも根もつきはてたマーペーは、悲しみのあまり、そのまま石になってしまった。

今でも野底岳のちょう上には、石になったマーペーが、いとしいカニムイの住む黒島の方を見てすわっているわけ。

悲しい悲しい石垣島に伝わるお話さ。

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人魚と大津波(星野)

昔、石垣島の東海岸に小さな村がありました。
その村の名を野原村といい、村のはずれには美しい岬がありました。

岬からの眺めはすばらしく、月がのぼると、波はきらきら光り、まるで星屑をちりばめたようでした。
そんな夜、若者たちは岬に集まり、三味の音や指笛に合わせて歌い踊りました。

さて、そんなある月夜のことでした、若者たちがいつものように岬で遊んでいると、沖のほうから、なにやらものがなしい歌声が聞こえてきました。

「おや、いまのはいったい何だろう。」
「風の音かも・・・・。」

若者たちは耳をすましました。

すると、こんどは波の音にまじって、すきとおるような歌声がはっきりと聞こえてきたのです。
細くゆっくりとながれてくる歌声に、若者たちはうっとりと聞きほれてしまいました。
ふしぎなこともあるものです。
それからというもの、波の静かな月夜になると、決まって美しい歌声が村の岬に届きました。

そんなある夏の日のことです。
野原村のおじいさんが、サバニ (小舟) で漁に出ていきました。
波の静かな、雲ひとつない晴れた日でした。

沖に出ると、おじいさんは、
「海の神さま、いつもいつも、わしら海ンチュ (漁夫) を守っていただきありがとうございます。」
と手を合わせ、それから、えいっとばかりに網を投げました。

その日は、おもしろいように魚がとれたので、おじいさんは、何度も何度も網を投げてはたぐりよせていました。
夢中になっているうちに、あたりはすっかり暗くなり、飛び跳ねた魚が月明かりできらっと光ります。

「おやおや、もうこんな時間か。そろそろ帰らねば、ばあさんが心配する。」
おじいさんは最後の網を引きました。
ところがどうしたことか、網が重くて引けません。

腰を落として、力をふりしぼり、もう一度引きます。
ぐぐっとほんの少し動きました。さらに力がこもります。

顔を真っ赤にしたおじいさんは、やっとのことで、網を船べりまでたぐりよせました。
「こりゃあ、すごい獲物だぞ。」
はやる心を押さえながら、網の中をのぞいたおじいさんは、はっと息をのみ立ちつくしてしまいました。
なんと網には、美しい人魚がかかっていたのです。

「あ、あんたはいったい・・・。」
「私は人間ではありません。海に住む人魚です。」
「なに、人魚だって・・・・。」
「どうか、わたしを海にもどしてください。」

人魚は、おびえた目で、じっとおじいさんの顔を見つめました。
おじいさんは、どうしたものかと迷いました。
話には聞いたことがありましたが、人魚を見るのははじめてでした。
とらえて、村のひとたちに見せてやりたいような気もします。

「もし逃がしてくださるなら、海の秘密をお教えいたします。」
人魚は涙を流しながらたのみました。

おじいさんは、ほんの少し惜しい気もしましたが、ひどくおびえている人魚がかわいそうになり、人魚は、うれしそうにサバニのまわりを泳ぎながら、
「おじいさん、ありがとう。明日の朝、この石垣島は大津波に見舞われます。人も、動物も、家も、畑も、流されてしまうでしょう。どうか、村に帰ったらいっこくも早く山のほうへ逃げてください。」
と、いいのこして、海の中へすーっと消えて行きました。

さあ、たいへんです。
月夜の海を、おじいさんは村へといそぎます。
早く知らせてあげねばと、けんめいにサバニをこぐおじいさんの耳に、どこからともなくあの美しい歌声が聞こえてきました。

「そうか、あの歌の主は、人魚だったのか。あの人魚は、きっと海の神さまの使いにちがいない。」
おじいさんの話に、おどろいた村の人たちは、さっそく山へ逃げるしたくをし、足の速い若者をとなり村に走らせました。

ところが、となり村では、そんなばかな話は信じられない、と取り合ってくれません。
それどころか、しまいにはおこりだすしまつです。
知らせに走った野原村の若者は、しかたなく引き返しました。

朝になりました。
まんじりともしない夜を明かした野原村の人たちが、あまりの静けさに、半信半疑になりながら海を眺めているそのときでした。

満潮にもかかわらず、沖に向かって潮がいっせいに引きはじめ、いままで姿を見せたことのない海の底さえ、すっかり干あがってしまったのです。

このふしぎな海の動きに、野原村の人たちがおどろいているあと、とつぜん、沖の海がふくれあがり、それがよこに延びたかとおもいきや、山のような波となって、どっどっどどどーと、ものすごいいきおいで島におそいかかってきたのです。

ごーっというはげしいうなりは、まるで地の底からひびいてくるような不気味な音でした。
たちまち浜から村へ、そして畑をいっきにのみこんだ波は、一瞬、引いたようでしたが、野原村の上で巨大な渦となってさらにおしよせてきたのです。

崖はくずれ、大木さえも押し流され、波しぶきのために島中が水びたしになりました。
すべてのものが、まるで大きな口をあけた化け物にのみこまれてしまったかのようです。

野原村の人たちは、あまりのおそろしい光景に、声もなく、ただただふるえているだけでした。

どれくらいの時間がすぎたでしょうか。いつのまにか海は、なにごともなかったかのように、もとのおだやかな姿にもどっていました。
けれども、津波になめつくされた村は、打ち上げられた海の岩が見えるだけで、あとかたもなく消えうせていました。

家や畑は失いましたが、野原村の人たちは、命が助かったことをよろこび合いました。そして人魚に感謝しながら、力を合わせて村のたてなおしにはげみました。
人魚の話を信じなかったとなり村の人たちは、一瞬のうちに、海のもずくとなって消えていきました。山へ働きに出ていた人たちだけが、生きのこることができたのです。
野原村の岬には、いまでも波の静かな月夜になると、人魚の歌声が聞こえてくるそうです。

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